三宅清嗣 先輩 ~人を説得する上での本質を知る~
JCには1985年に入会した。当時、26歳だった。ところが、入会してからの五年間は、JC活動をほとんどしておらず、その間の参加率はゼロ%に近かったと思う。この頃の自分は、会社の中では一営業マンでしかなく、時間を自分でコントロールできる立場になかった。そんな中、遅刻・早退は認めないというJCの原則は、当時の自分のモチベーションを下げる一因になっていた。正直、JCが嫌いだった。
ところが、そんな自分が、90年以降、年を追うごとにJC活動に積極的になっていった。その理由の一つに、会社の中での立場の変化がある。その頃から、段々と自分の都合で時間を作れるようになり、それに伴い、「色んな人に会って、色んな話を聞かないといけない」と思うようにもなった。
また、もう一つの理由として、90年と91年の二年間のことが挙げられる。今、振り返ってみると、この二年間は、自分のJC生活で大きな節目になったと思う。90年に、まちづくり委員会の副委員長をさせてもらった。この年、JCへの参加率は50%位になったと思う。委員長は藤井清実さんだった。藤井さんは、ソフトな人当たりで、独特の雰囲気を持たれた方だった。この藤井さんにうまく乗せられたという感じがする。翌91年には、指導力開発委員会の委員長をさせてもらった。理事長(当時予定者)の槙岡達真さんに「お前、まさかこのままでいいと思っているわけではないだろうな」と言われたのだ。なぜ自分が指導力開発委員会の委員長に指名されるのか、自他ともに理解できなかったが、槙岡さんも強引だった。この年からようやくJCへの参加率がほぼ100%になったと思う。
92年には、日本JCに出向し、第五政策委員会で運営幹事をさせてもらった。声をかけ、背中を押してくださったのは、またも槙岡さんだった。もともとは、委員での出向という話だったが、諸事情により、途中から、自分が運営幹事をさせていただくことになった。LOMでは、政策開発特別副委員長(室長)をさせてもらうことになっていたので、期せずして、大変な状況に陥ってしまった。
運営幹事の役割というのは、一言で言うと、委員会の設営だった。会議室、宿泊、懇親会などの手配から、人数分の資料の作成に至るまで、舞台裏のあらゆる設営が自分に課せられた役割だった。当時の委員会資料は、A4サイズで50ページほどあった。これを50人分、コピーし、製本して、委員会が開催される会場に宅配便で送らないといけなかった。この当時のコピー機でこれだけの作業をするとなると、7~8時間はかかった。
当初は要領がつかめていなかったが、次第にこういった舞台裏の設営に関して、事前に何をどこまでしておくべきかが、分かるようになってきた。そうなると、はじめの頃に比べて、余裕が生まれてきた。最初は、役割上の義務作業としてしか考えていなかったが、段々と舞台裏の設営の重要性も実感できるようになった。
94年は、日本JCで国際貢献開発教育委員会の委員長をさせてもらった。「ワールドゲーム」と呼ばれる教育ツールのファシリテーター資格を取得するために、2月に米国のフィラデルフィア大学に行った。滞在期間は約一週間で、この委員会に出向していた大之木洋之介君と梶山征爾君も一緒に行った。到着した日は、晴れていたが、翌日から大雪に見舞われた。雪のため出国便も欠航になり、急遽、大陸横断鉄道に乗って、ワシントン経由で帰国することになった。研修そのものはもちろん、こういった旅先でのハプニングも、通常では得難い経験になった。このような経験が共有できると、お互いの距離がぐっと縮まる。帰国してからは、ワールドゲームの指導役として、各地のLOMを十ヵ所程度回り、そこでも色々な方との出会いを得ることができた。
95年には、LOMで理事長をさせてもらった。JCも会社も、組織であるという点では同じである。理事長をさせてもらったことで、「組織のリーダーとしての考えをいかに示し、それをどう理解してもらうか。そして組織のメンバーにどう動いてもらうか」を学ぶことができた。これは、ある種の疑似体験とも言える。
96年は、日本JCで国際室室長をさせてもらった。一年の三分の一は海外へ行き、渡航回数は年間約20回に及び、行かなかったのは、中南米くらいではなかったかと思う。この年は、海外に行くのが平気になり、とんぼ帰りも何ともなくなった。
97年には日本JCで副会頭を、翌98年は顧問をさせてもらった。当時の日本JCの正副会議は、「顧問対副会頭」というスタイルで行われていた。顧問は、自分を含めて三人いた。役柄上、日本JCに上程される議案は全て目を通していた。議案数は多いときで百本位あり、紙で打ち出すと、電話帳位の厚さになってしまう量だった。
しかし、どの議案の審議が長引きそうか、ざっと読んだだけで分かった。前年に副会頭をさせてもらったとき、議案の通し方のコツが分かったからだ。気が付いて見ると、案外と単純なことで、一言で言うと、読む側の立場になって議案を作成するということである。議案を作成する側は、一所懸命のあまり、視野が狭くなりがちであるが、読む側の立場に立って、どういったところが気になるだろうかと考えると、押さえるべきポイントが見えてくる。その的をはずしていると、読み手はひっかかってしまう。そうなると、議案の審議も時間がかかってしまうのだ。これはテクニック・レベルの話ではない。人を説得する上での本質ではないかと思う。
そして99年には、日本JCで専務理事をさせてもらった。これが自分のJC生活の最後の役になった。入会してからの五年間は、JCへの参加率がほぼゼロ%だった人間が、ここまでやらせてもらうようになった。やはり、90年に藤井さんにうまく乗せられ、91年に槙岡さんに強引に担ぎ出されたこと、そして多くのメンバーに支えてもらっていることに気付いたことが、大きな転機になったと思う。
次のインタビューは、自分が理事長をさせてもらったときに専務理事をしてくれた岡俊治さんに繋ごう。