村田祐二 先輩 ~物事を決めるプロセスの模範レベルを体感する~
1984年、賀谷満夫さんが委員長として率いる、青少年開発委員会の幹事をさせてもらった。そして、その翌年、ふるさとづくり推進委員会の委員長をさせてもらった。入会4年目で、当時、33歳だった。この年は、前年に引き続いて、呉みなと祭で「ヤマトイベント」をPartⅡとして行った。内容としては、前年に行ったヤマトイベントの規模を膨らませたものだった。その一つが「前夜祭」である。自分としては、呉みなと祭をより活性化させるには、若い人たちをこれまで以上に集める必要があり、それには前夜祭の実施が効果的だと考えた。ところが、前夜祭については、内外から強い反対を受け、とりわけ、内からの反対は大きかった。
今、振り返ってみると、唐突過ぎたのだと思う。自分の中では、この件は前年の予定者の段階(9月)からから既に考えていたのだが、アイデアを具現化するのに時間を要し、議案審議の途中段階で、ポッとこの話しを入れてしまった。それが他の理事メンバーの唐突感に繋がったのだと思う。組織の中で物事を通していくには、やはりしっかりとした根回しが必要だと感じた。このときは、それが全くできていなかったのだ。その後、趣旨目的を自分なりに整理し、各方面に根回しを行った結果、無事やらせてもらうことになった。
前夜祭では、RCC中国放送の「サテライト№1」の公開放送を行うことにし、また、研ナオコや斉藤清六、南一誠といった芸能人による野外コンサートの計画も立てた。しかし、何にせよ、そのための資金が足りず、RCCの担当者に「芸能人は番組の出演者だと考えてもらえないか」と打診をした。その結果、これに関する費用は、JCとRCCで折半にするということで合意を得た。しかしそれでも、まだ資金が足りなかったため、OBの会社を中心に市内各社を何社も訪ね、事業の趣旨を説明しながら、協賛のお願いをして回った。これは、本当に貴重な体験になった。
ヤマトイベントPartⅡに関しては、予定者の頃から全力で疾走し、直前の3ヵ月は本当に佳境状態だった。会社に出られず、社長(当時)からも随分怒られたが、いくら怒られても、受けた責任を放り出すわけにもいかず、とにかく最後までやるきるしかなかった。正直、「早く終わらないかなあ」と思うこともあったが、いざ終わってみると、かけがえのない経験をさせてもらったという気持ちでいっぱいだった。
この事業を通じて、JCメンバーはもとより、呉市や呉商工会議所、呉地区子ども連合会の方々とも密な時間を過ごした。皆さん、JCの考えに賛同してくださり、力になってくれた。今でも、彼らと「あのときは本当によくやったなあ」と語り合うことがある。呉市の担当者は、若かりし頃の貞国信忠さん(現呉市助役)だった。貞国さんには、前年に引き続いて、企画段階から一緒に入っていただいた。委員会にも毎回参加してくださり、その後の懇親会にも、毎度のように自腹で付き合ってもらえた。まさに、「仲間」という感覚だった。貞国さんを通じて、呉市の企画課以外の方にも知り合うことができた。市政だよりにヤマトイベントのことを掲載してもらうのに、締切日を過ぎていたにもかかわらず、広報担当の方に何とかしていただいたこともあった。こういったご恩は今でも忘れていない。
JCには計10年間在籍させてもらい、仕事の世界だけでは、絶対に得られない多くの人との出会いがあった。利害関係のない彼らと生涯に亘って付き合える関係を築くことができたのは、自分にとって何よりもの財産となっている。また、JCの会議は本当に厳しかった。厳格な運営方法、それに先立つ根回し、その大前提たる考え抜かれた議案書。物事を決めるプロセスは、かくあるべきだというのを肌感覚で学んだ。言わば、模範の体感である。自社において物事を決める際、必ずしもJCで学んだことがきちっと実践できているわけではないが、模範となるレベルを肌感覚で知っているか否かの違いは、大きいと思う。貴重な勉強をさせてもらったことに感謝の気持ちでいっぱいだ。
次のインタビューは、最近仲がいい糸谷博海君に繋ごう。