JCで一皮むけた経験

藤井清実 先輩  ~のめり込んでいるときこそ、一歩下がって冷静に見る~

 自分には、六歳違いの兄がいる。兄は、1973年、26歳のときにJCに入会した。若くして入会したため、苦労していた。当時、兄を通して、JCを垣間見た。その印象はというと、「ステータスが高い」「金遣いがあらい」「付き合いが大変」「かっこいい」「スーツにバッジ」「友情に厚い」といったものだった。JCに対して、威厳と誇りを感じる人たちばかりが入会していたように思う。その兄が、87年に卒業し、翌年、自分は兄と入れ違いでJCに入会した。35歳になる年だった。

 

 入会した年、日本JCの会頭が呉に来られた。会頭には、オーラがあった。それは、会頭という看板を背負った人間が醸し出す自信のようなものだった。もちろん、話も上手く、自分と、僅か四歳位しか離れていなかっただけに、なおのこと衝撃的だった。果たして四年後に、自分はこれほどの人になれているだろうかと思った。さすがに会頭になろうなどという気はなかったが、自分を向上させる意欲をかきたてられたのを覚えている。「安閑としていてはダメだ。のんべんだらりとやるような人生では意味がない。今の自分よりはるかに高いレベルの経験ができるチャンスだ。普通の人が10年かかってやるようなことを5年でやってみよう」と強く思った。

 

 90年には、まちづくり委員会の委員長をさせてもらった。副委員長は、三宅清嗣君だった。当時の三宅君は、JC活動に積極的だったとは言い難く、スタッフ会議や委員会にもあまり出て来なかった。予定者の頃から、ある程度は予想がついていたので、何とか出てもらおうと、あの手この手で一所懸命、口説き続けた。そんな中、ある日、彼の方から「うちの会社でスタッフ会議を開きませんか」と言ってくれたことがあった。この日を境に、彼のJC活動に対する姿勢が少しずつ変化していった。誰とでも真摯に向かい合って、本音で話し続ければ、心が通じるし、付き合っていけると思った。この年、どんな事業をしたのかは、正直、何も覚えていない。三宅君と上手くやれたことが、この年の自分の全てだった。その後の彼の活躍は、衆知の通りである。彼が大舞台で活躍している様子を聞くのが何とも嬉しかった。

 

 92年には、副理事長をさせてもらった。創立40周年の年で、理事長は賀谷隆太郎さんだった。とにかく、皆、熱かった。議論を尽くし、汗をかき、涙を流したことが今でも忘れられない。逆境も多かったせいか、自分のJC生活で最も思い出深い年になった。但し、周囲の目とのギャップは必ずあると思っていた。JC活動にのめり込んでいると、自分たちがまるで地域社会を動かしているような気になることがある。これは錯覚である。錯覚であることを否定できないとしたら、それはもはやJCという宗教でしかない。だからこそ、市民の目から見た検証が必要だと思う。やっていることは、意外と大したことではない。そんな冷静な目線を持つことも大事だ。一歩も二歩も下がって見ることができないようでは、宗教と同じになってしまう。世の中には、アンチJCの方もおり、彼らの話に耳を傾ける姿勢も要ろう。こういったスタンスは、仕事の世界でも求められると思う。

 

 JCメンバーと一口で言っても、皆が一様なわけではない。凄い人もいれば、普通の人もいる。中には、反面教師のような人もいる。仕事もせず、家庭も省みず、JC活動にのめり込むのはいかがなものかと思う。仕事もし、家庭も大事にし、その上でJC活動をきちっとする。そんな人が、「凄い人」だと思っていた。明るい豊かなまちづくりを標榜していながら、離婚や家庭崩壊、会社倒産してしまっては、一体、何のためのJC活動かと思う。せっかくJCに入った以上、やはり凄い人と付き合うべきであり、自分もそんな人との付き合いを大事にした。

 

 次のインタビューは、自分のJC生活で最も思い出深い年に理事長をされた賀谷隆太郎さんにお願いしよう。