JCで一皮むけた経験

長柄雅守 先輩  ~馴染みのない分野でも、一所懸命勉強すれば道が開ける~

 JCには、1971年、24歳のときに入会した。以来12年間、LOMではほぼ一貫して会員交流畑を歩んだ。それはそれで楽しく、当時は「これがJCだ」という思いでやっていた。入会12年目の82年には、副理事長をさせてもらった。その年のある日、日本JCで委員長を経験されていた永田徳博さんから、「長柄君は、日本JCに出向したことがなかったのか。俺が話しをつけておいたから」と言われた。日本JCのことなど、まるで考えたこともなかったが、「俺が話しをつけておいたから」などと言われると、永田さんの顔を潰すわけにもいかないと思い、出向させてもらうことにした。

 

 日本JCでの出向先は、LD(指導力開発)プログラムに関わる委員会だった。委員長は、豊橋JCの赤井さんという方で、驚くほど頭がいい方だった。当時の自分は、LOMで会員交流ばかりやっていたので、LDの意味すらも分かっていなかった。それに引き換え、周囲のメンバーは、「LDのプロ」と言われるような論客ばかりで、自分は一人浮いていた。「長柄君、君の得意分野は何だね」と聞かれ、「宴会です」と答えるしかなかった。ところが、その一言で「おもしろい奴だ」と思われたようで、不思議と異色の自分を受け入れてもらえた。

 

 後で知ったことだが、期せずして配属されたこの委員会は、希望しても中々入れるような委員会ではなく、「長柄君は、一体どうやってこの委員会に入ったのか」と聞かれたことも何度かあった。LDの意味さえも知らなかった自分がこの委員会に入れたのは、永田さんが取り持ってくれた「縁」以外の何物でもなかった。

 

 出向したての頃は、何が何だかさっぱり分からなかったが、半年ほど経つ頃には、LDのことが何となく分かってきた。もちろん一所懸命勉強もした。委員会の雰囲気も楽しく、自分がこの新しい環境に徐々に馴染んでいっているのが実感できた。あるとき、委員長から、意見を求められた。背伸びをせず、思うところを述べたところ、「なるほど。面白い。長柄君、それ、いいよ」と言われた。このとき、委員長に認めてもらえたことが、自分にとって一つの自信になった。

 

 翌84年には、日本JCで指導力開発委員会の副委員長をさせてもらい、100人を超える人を前にスピーチをする機会があった。皆が自分のことを「LDのプロ」だと思い込んでいるのが、何ともおかしかった。

 

 その翌年の人事では、日本JCの委員長を打診された。しかし「LOMで理事長をしてもらえないかという話があるので」と言い、お断りをした。実際はそんな話はされていなかった。ところが、その打診をしてくださった方が、ある日突然、呉にまで来られ、「日本JCの委員長をやってもらえないかとお願いしたが、LOMで理事長をするからと言って断られました。彼のことをよろしく頼みます」と言われた。「そうか。長柄君もとうとうその気になってくれたか」と言われ、自分は返す言葉がなかった。

 

 日本JCに出向して、LDをやっていなかったら、LOMで理事長をさせてもらうことはなかったと思う。「レールに乗った」という表現がしっくりくる。日本JCで副委員長をさせてもらっていた年は、全国各地のLOMで15分程度のスピーチをする機会など珍しくなかった。そのため、例会での出向者報告など、朝飯前だった。「これまで会員交流一筋だった長柄が、日本JCでLDに染まっている」と思われたようで、LOMでの自分に対する見方が変化していっているのがよく分かった。そういった背景があって、86年に理事長という大役が自分に回ってきた。

 

 今、振り返ってみると、JCでの最後の五年間は本当に濃密だった。とりわけ、日本JCに出向していた年は、自分にとって大きな節目だったと思う。もともと旅行が好きだったので、日本JCへの出向は「旅に出る」というような感覚だった。この間の体験は、自分にとっての財産であり、そこで築かれたネットワークは今も活きている。自己評価は難しいが、あの頃学んだことは、無意識のうちに、会社でも実践しているかもしれない。当時、論語や孟子などの中国の古典を読み漁ったが、そこに書かれてあったことを今でも思い返すことがある。こんな本は、日本JCに出向していなかったら、生涯手に取ることすらなかったと思う。
 

 

次のインタビューは、日本JCに出向させてもらう「縁」を取り持ってくれた永田徳博さんに繋ごう。