永田徳博 先輩 ~プロセスを大事にし、合意形成に努める~
自分は、呉の生まれ育ちではない。広島中央ヤクルト販売という会社は、父が作った会社だ。その会社で仕事をするために、25歳のときに呉に来た。仕事に関しては自分でやっていく覚悟はあったが、知り合いは多いに越したことはないと思っていた。そんな中、呉JCという団体の存在を耳にした。そこへ、当時、呉JCのメンバーだった奥原國雄さんから「興味があるなら入会してみてはどうか」と言われ、1974年に入会した。27歳のときだった。いざ入会してみると、色々と厳しいもルールもあり、すぐに馴染めたというわけではなかった。しかし、組織である以上、それはある程度仕方がないと思った。とにかく、呉の人と知り合うことが大事だと思っていた。
80年に、副理事長をさせてもらった。今、振り返ってみると、この頃からJC活動に身が入ってきた。と言うのも、やはり役を受けると、真面目にやらざるを得ないからだ。それが、偽らざる本音だ。
翌81年には、日本JCで経営文化問題委員会の委員長をさせてもらった。この年、JC活動への傾注に拍車がかかった。日本JCは、LOMとはまた違った雰囲気があり、面白いところで、友達もたくさんできた。しかし、日本JCであれ以上、活動を続けていたら、会社での今の自分の立場はなかったと思う。その意味で、当時の自分にとっては、日本JCでの活動は、あれがギリギリの限度だった。
84年には、LOMで理事長をさせてもらった。この年、呉で中国地区大会が開催される予定になっていたため、週末になると、鳥取、島根、山口、岡山と各地を訪ね、PRして回った。よくあれだけのことができたと思う。今、やれと言われても絶対にできない。やはり、若さだろう。それと、JCそのものにも魅力があったのだと思う。仕事の世界だけでは、どこか消化不良のところがあり、そこの部分がJCで満たされていたのかもしれない。
日本JCでも、LOMでも自分の考えをメンバーに理解してもらうのに苦労した。それは、価値観が一様でないからだ。100人いると100通りの価値観がある。自分の考えは、その中のほんの一つにしか過ぎない。まして、JCは利害関係のない者同士で構成された組織であり、指揮・命令では、人は動かない。そのため、責任と立場が伴えば伴うほど、多くの人の声を聞かないといけない。もちろん、周囲の声に流され過ぎてもいけない。そこで、大事なことは、ビジョンを持ち、そのビジョンについてメンバーに納得してもらうことである。そのための具体的な手段を探るところに修練がある。自分もその機会を与えてもらった。
理事長をさせてもらったとき、それまで別々に開催されていた呉みなと祭と子ども祭を一本化し、そこでヤマトフェスティバルを行った。今までにないことをやるという意味で、苦労は多かった。審議の過程で、理事メンバーから賛同を得られなかったこともあった。もちろん、理事長の立場で「とにかくこれはやるんだ」と押し切ることはできた。おそらく、それは最も簡単な方法だったろう。しかし、そうはしなかった。あくまで、皆に納得してもらうことにこだわり、プロセスを大事にし、合意形成に努めた。それがないと、メンバーに力を発揮してもらうことはできないと思ったからである。そのため、コンセンサスを得るという部分には、必要以上に意識的に時間をかけた。
結果的に、紆余曲折はあったものの、理事メンバー全員の賛同を得ることができた。専務理事の槙岡達真君や委員長の賀谷満夫君たちには、大きな苦労をかけたと思う。しかし、皆、いいものを持っており、そこに焦点を当てることで、力を発揮してもらえた。あのときのヤマトフェスティバルが、もし今の大和ミュージアムにどこかで繋がっているとしたら、これほど嬉しいことはない。
自分の現役時代は、多少、会社を留守にしても許されるようなところがあった。今から思うと、まだ余裕がある時代だった。しかし、今は当時とは環境が違う。会社を潰すというのは、社会悪である。主客転倒してはいけない。会社をダメにし、家族を犠牲にし、メンバー間で傷つけ合うようなことは、絶対にしてはいけない。
今や、組織の論理が昔に比べて通用しなくなっている。企業であれば、顧客の視点や感覚を豊かに持っていないと、もはや存続することが難しい時代だ。JCも、市民から支持されるような活動をしないといけない。そのためにも、市民の声をよく聞き、よく拾い、よく探る必要がある。間違っても、市民に対してJCが傲慢であってはいけない。
自分は、30代という多感な時期にJC活動をさせてもらった。JCは、その頃の生活のかなりの部分を占めており、良きにつけ悪きにつけ、受けた影響は大きかった。あれだけのエネルギーをもし仕事に向けていれば、と思うこともある。しかし、JCのおかげで、多くの人と知り合い、本音で話せる仲間ができた。仕事の世界では、中々こうはいかない。
次のインタビューは、堀口勝哉君に繋ごう。彼は、日本JCへの出向を境に大きく変わった。おそらく、日本JCで自分の知らない世界に触れて、刺激を受けたのではないかと思う。最後には、〝The JC〟のようになった。