金原一次 先輩 ~逆境のときこそ仲間を信じ、逃げずに最後まで走りきる~
入会二年目の1996年、アカデミー委員会の幹事をさせてもらった。当時、29歳だった。委員長は三島義弘さんで、副委員長は浜田成司さんだった。幹事という役柄上、自分のスケジュールは一切考慮されず、全て相手の都合で予定が決められた。当初は、それに対する反発心が強く、委員長と衝突したこともあったが、後に、それは自分の狭量さによるものであることに気が付いた。今思うと、当時の自分はまだ子供だった。この年、幹事という役を通じて、ホスピタリティの精神を学んだ。
98年、日本JCで顧問をされていた三宅清嗣さんのチーフ・セクレタリーをさせてもらった。東京と広島を頻繁に行き来する毎日で、肉体的にも精神的にも負荷が大きかったが、性格上、周囲からどんなことを言われても、臆することなくやり続けた。あるとき、睡眠もろくにとれない日が三日三晩続いた中、またも東京行きの予定が入った。次の日の朝、三宅さんの奥さんが「金原君、本当に毎日大変ね。これ、もし良かったら食べてね」とおにぎりを持たせてくれた。このとき、「人は意外と見てくれているもんだなあ」と思った。朝食は既に自宅で済ませていたが、三宅さんの奥さんの気遣いが嬉しくて、飛行機の中でむさぼるようにして食べた。大きなオニギリだった。
また、その頃、自分の子供が入院していた。ある日、入院先の病院に三宅さんの奥さんが見舞いに来てくれたことを妻から聞いて知った。子供が入院していることは、三宅さんにはポロっとこぼしたことがあったが、それが奥さんの耳に入ったのだろう。三宅さんと奥さんの心配りが本当にありがたかった。このとき、人に何かを求めてばかりいた自分が、いかに小さい人間であるかに気付いた。
99年、コミュニティ推進委員会の委員長をさせてもらった。この年は、「呉のまちに対する愛と誇りのシンボルとして木を植えよう。場所は、呉を象徴するような所にしよう」と考えていた。ところが実際は、事業のための事業を行うだけで、肝心の最終事業をすることができなかった。他の理事メンバーの理解を得るに至らなかったからである。
委員長としては、正直、不本意な思いをした。この気持ちは、以後長く引きずった。それが解消されたのは、2005年に理事長をさせてもらったときである。理事長の役を演じる過程で「必ずしも最終事業ありきではない。そこへ至るプロセスがどれほど深いものか。その方がはるかに大事だ」と思った。自分が委員長をさせてもらったときは、最終事業こそ結実しなかったが、そこへ至るプロセスでの学びは多かった。まちを思い、まちづくりのあり方を考える意義深い年だった。最終事業ありきで、妙な達成感で満足して終わってしまうよりも、良かったかもしれない。そう思えたとき、六年越しの不本意感を払拭することができた。
2003年は、副理事長をさせてもらった。この年はトラブル対応の多い年で、自分に対する周囲からの突き上げも幾度となくあった。JCを辞めたいと思うこともあった。プライベートでも両親が同じ時期に揃って入院するなど、本当に心身とも辛い日々が続いた。そんな環境の中、担当ラインの事業で何かと物議をかもすことが多かった「One Heart」が、皆に喜んでもらいながら、八月に無事フィナーレを迎えることができた。このフィナーレで全てが洗い流されたような気がし、また、これまでの辛い思いから解放され、ホッとし、肩の力が抜けもした。
その日の打ち上げで、担当ラインの委員長だった河内康浩さんと友木嘉宣さんが涙を浮べながら、抱きついてきた。二人はこれまでの辛さを誰よりも分かっていた。その両委員長から抱きつかれ、涙があふれ出てきた。また、「お前が委員長のときにできなかったことをあの二人がやってくれたな」と言ってくれたメンバーもいた。
一緒にやってくれる仲間を信じること。壁にぶつかっても、逃げずに正面から進むこと。そして、一度走り出したら、最後まで走りきること。それらの大切さを学んだ年でもあった。
2005年は、理事長をさせてもらった。2003年の勢いがあったから、理事長という大役が自分に回ってきたのだと思う。翌2006年は、広島ブロック協議会の会長をさせてもらった。この二年間は、自分がこれまでJC生活で経験してきたことを若いメンバーに伝えたいという気持ちが強く、言わば、求める側から与える側へ軸足がシフトした年だった。
理事長としても、ブロック会長としても、自分は厳しかったと思う。煙たがられたかもしれない。しかし、「逃げるな。本気でやりたいと思うのなら、徹底しろ」。そんな気持ちで、メンバーと接していた。たとえ煙たがられても、緩めたらおしまいだと思っていた。そんな中で、人が育っていくのを実感でき、それが一番嬉しかった。
今、振り返ってみると、JCで大変なときに限って、子供や親が入院したり、会社で事故が起きたりと、必ずと言っていいほど、大きな試練に直面していた。その試練に怯まず、最後までやり抜くことができたのは、自分のJC活動に批判的でもあり、理解者でもあった妻の存在が大きい。三宅清嗣さんのチーフ・セクレタリーとして、東京行きが続いていた頃、「また明日も東京に行かないといけなくなった。申し訳ないが、行ってもいいか」と妻に尋ねたことがあった。妻は、一言、「行ってもいいけど、行く以上は、三宅さんを会頭にしてきなさいよ」と言った。覚悟を決めた女は強い。思えば、自分のJC生活は、本当に起伏の激しい12年間だった。JCに入っていなかったら、自分はただの田舎の青年として、30代を過ごしたと思う。
次のインタビューは、尊敬してやまない三宅清嗣さんに繋ごう。