JCで一皮むけた経験

槙岡達真 先輩   ~「市民」の概念を学び、世の中の見方が変わる~

 JCには、1981年、28歳のときに入会した(1980年後期入会)。入会した翌年から日本JCに出向し、以来、卒業するまでの間、ほとんど毎年、日本JCに出向していた。日本JCでは、自分とは違う世界を持った人たちとたくさん出会うことができ、言わば人を見て、人を知るきっかけになった。

 

 82年は、LOMで会員開発委員会の副委員長をさせてもらった。委員長は、永田徳博さんだった。永田さんは、日本JCの委員長経験者で、本当にすばらしい方だった。今、振り返ってみても、永田さんとの出会いは、自分のJC生活での一大イベントだった。

 

 84年には、専務理事をさせてもらった。LOMでは、それまで副委員長とセクレタリーの役を経験させてもらっただけであり、おそらく、当時としても、異例中の異例の人事ではなかったかと思う。声をかけてくださったのは、理事長(予定者)の永田さんだった。82年の委員長‐副委員長の関係のときから、心底尊敬していたので、断る理由はなかった。また、永田さんが自分を選んでくれたのだから、断ってはいけないと思った。
 永田さんは、自分からすれば、大変常識があって、気配りができ、メリハリの利いた人だった。発想から行動に至るまで、一時が万事、新鮮で、自分にとって不利益なことでも真摯に取り組まれていた。また、公益法人である青年会議所の会員としての社会的責任を常に念頭に置かれており、社会人・企業人としてのご自身の立場をよく理解されていた。ヤクルト本社の肩書きもあり、大変多忙であったようだが、ご自身の立場でできる精一杯の活動をされていたと思う。専務理事をさせてもらう以上は、役割に徹しようと思い、この年の例会の後は、ウーロン茶しか飲まなかった。「永田さんを送って帰るまでは」という意識が強かったからである。もっとも、年度末までそれを貫き通すことができず、結局「酒乱ボーイ」の異名をとることとなったが・・・。

 

 90年には、日本JCに出向し、JC総合研究所運営特別委員会の委員長をさせてもらった。毎週、全国を行脚し、体力的にもきつい年だった。東京で用を済ませ、その後、福岡入りするなど、一日に数ヵ所、訪ねることも珍しくなかった。当時は、まだバブル時代で余裕もあったため、このようなことができたのだと思う。
 

 

 日本JCでは、政策畑を歩み、市民参画型のまちづくりのあり方を学んだ。市民参加型政策形成システム構築のためのシンクタンク構想推進会議に幹事として出向させてもらったとき、先輩から次のようなことを教わった。『元来、日本に「市民」はいるのだろうか。米国の歴史は、「市民」が協同してまちをつくってきた。そして、それが米国型の民主主義を創造してきた。それに対し、日本の歴史を振り返ってみると、そこにいたのは「市民」ではなく「領民」だったのではないか。明治維新も、市民革命ではなく、地方の下級武士のクーデターに過ぎない。「領民」は「市民」とは異なり、絶えず、上から何かを与えられる存在だ。このように考えると、果たして日本に民主主義は存在するのだろうかとさえ考えてしまう』。まちづくりの政策を考える上で、この「市民」という概念は重要だと思った。

 

 91年、理事長をさせてもらった。古いものを見直し、時代にそぐわないものはやめることにした。まず、理事を減らし、時代背景も踏まえて規約も変更した。呉みなと祭との関わりも改めた。呉みなと祭の活性化については、それまで呉JCも一所懸命、取り組んできた。それはそれで正しかったが、継続が上手くいかなかった。それはなぜか。おそらく、JCが用意した場を提供するだけのような祭りのあり方では、人を継続的に惹きつけることができないのだと思う。市民が自ら企画し、運営し、参加するような祭りでないと、「継続」というハードルは越えられないのだろう。そういう意味では、ひろしまフラワー・フェスティバルは、比較的、上手くいっているのではないかと思う。祭りには、市民にとってのある種の自己満足が必要なのだと思う。

 

 JC生活全般を通して、真剣に問題に取り組む多くの人に出会えたのが、自分にとっての一番の財産だ。現役時代は、一緒に活動をする機会が少なかった方にも、その後色々な場面でお世話になっている。とりわけ、教育活動に無縁だった自分にPTA活動を行うきっかけを作ってくださった横山健次さんには大変感謝をしている。当初は迷惑に思ったものだが、この活動を通して「人」に対する考え方が大きく変わったように思う。このような人間関係が出来るところがJCのいいところだろう。

 

 次のインタビューは、理事長をさせてもらった年に、まちづくり財団推進特別委員会の委員長として汗をかいてくれた、下中利孝君に繋ごう。