JCで一皮むけた経験

三宅信一郎 先輩   ~役を演じきることで、苦手なスピーチを克服する~

 JCには、先代に半ば強制的に入会させられた。1979年、30歳のときである。

 

 入会してみると、皆、経営者の卵ばかりだった。話が上手い人が多く、内向的な性格で、人前で話すのが苦手だった自分には、驚きだった。

 

 82年、政治問題委員会の委員長をさせてもらった。呉という土地柄もあって、安全と防衛について考える委員会だった。当時、この種の問題に関しては、LOM内に論客が多かったが、自分には全くもって何のことだか分からなかった。委員会の運営も拙く、先輩に助けてもらいながら、何とか1年をやり終えた。一皮むけたとは、とても言い難い年だった。

 

 84年には、総務室の室長をさせてもらった。しかし、正直なところ、1年を通して、言わば「盲腸」のような存在感しか発揮できなかった。この年は、日本JCの長期政策会議にも出向させてもらった。そこには「こんなことを考えている人たちが世の中にいるのか」と思うほど凄い人が多く、JCの人材の裾野の広さに驚いた。

 

 85年は、政策室担当の副理事長をさせてもらった。担当ラインに、コミュニティカレッジ構想委員会があった。委員長の宮中敏英君のがむしゃらなバイタリティがついこの間のことのように思い出される。

 

 87年には、理事長をさせてもらった。自分としては、身に余る大役だと思ったが、役を受けさせていただく以上は、最後まで演じきる覚悟を決めた。とは言うものの、ある日突然、理事長になったからと言って、急に何かができるようになるわけではなく、自分としては、皆さんの力を借りて、役割をまっとうすることしか考えていなかった。

 

 自分は元来、内向的な性格で、人前で話すのが苦手だったため、理事長挨拶は毎回苦痛だった。しかし、役がある以上、否が応でも、人前で話さないといけない。苦手云々は個人の問題であり、どうであれ、与えられた役割は演じきらないといけない。今となっては、そういった場を与えてもらって幸せだったと思う。
 理事長をさせてもらった年は、ちょうど35周年の年だった。当初は、小ぢんまりとやるつもりだったが、いつの間にか燃えてしまい、基金も取り崩して、ハート&ハートコンサートや、堺川クリーンキャンペーンなどの記念事業を行った。そして、これらの記念事業を、単発の事業としてではなく、3年間に亘って構築した「システム」として、日本JCに褒賞申請した。
 

 その年、和歌山で行われた全国会員大会では、理事長自らが、褒賞の審査委員の前で、最後のPRを行わねばならなかった。人前で話すのが苦手だった自分は、あらかじめ原稿を作成し、しっかりと頭にたたき込んで、和歌山入りしていた。ところが、前日になって、LOMで特別理事をされていた堀口勝哉さんの赤ペンチェックが入った。自分と専務理事の大島淳稔君、セクレタリーの岡俊治君、それに堀口さんの4人でホテルの部屋にこもり、深夜の二時を過ぎるまで、原稿の推敲作業を続けた。さらに翌朝になっても、堀口さんの追加の赤ペンが入った。折角、頭にたたき込んでいた内容も随分と様変わりし、寝不足と緊張で何をどうしゃべったのか全く覚えていない。しかし、役割をまっとうしようと懸命に努力したことは確かだ。

 結果、優秀賞をいただくことができた。早起きの得意な大島君が、発表の順番取りのため会場に一番乗りし、いい位置を取ったことも幸いしたようだ。もちろん、最大の功労者は、実際に事業の陣頭指揮をとった副理事長の谷本洋明さんや槙岡達真君、委員長の賀谷隆太郎君、そしてスタッフ全員である。褒賞授与の際、会頭から「具体的な行動をとれば、具体的な結果が返ってくる」と言われたことが強く印象に残っている。

 役を演じきることで、苦手なスピーチもある程度は、克服できたように思う。もちろん、今でも好きではない。しかし、克服の機会を与えてくれたJCには感謝している。

 

 次のインタビューは、雄弁な槙岡達真君に繋ごう。