JCで一皮むけた経験

大島淳稔 先輩   ~企画や運営をする上で先の展開が読めるようになる~

 1984年、都市問題委員会の委員長をさせてもらった。当時、入会3年目で32歳だった。

 

 その年、呉市役所の企画課を巻き込んだ「ミニ議会」を行った。当時の企画課には、課長の岡田督司さん(現広島バス社長)や、主査の貞国信忠さん(現呉市助役)等がいた。ミニ議会で「呉みなと祭を活性化させたい」と発言したところ、「であれば、JCさんに呉みなと祭の運営を全て任せます」と言われた。そこで、ヤマトイベントと銘打って、全長30㍍にも及ぶ宇宙戦艦ヤマトを模した熱気球を作成することにし、併せて、ソーラーバルーンコンテストといった市民参画型のコーナーも設けることにした。また、岡田さん等のご尽力で、呉市から100万円の補助金もつくことになった。

 

 ところが、理事会で他のラインの理事から「そんな大事な話をお前らだけで勝手に決めるな」と言われ、紛糾の末、上程議案は否決されてしまった。否決された後、担当ラインで飲み屋に行き、「これからどうしようか」と思案していたところ、理事長の永田徳博さんと、専務理事の槙岡達真さんが来られて、「今日、議案は否決されてしまったが、これは何としてでもやろう」と言ってくださった。担当室長の海崎一秋さんも、「もしどうしてもダメだめということであれば、JCを辞めてでもこの事業だけは絶対にやろう」と声をあげた。その後、臨時理事会が開かれることになり、皆で必死に想定問答を作成した。最終的には、他の理事メンバーにも熱意が伝わり、この議案は無事、審議可決した。

 

 しかし、そこからが大変だった。昼間は、学校から養老施設まで駆け回り、事業のPRを行って、ソーラーバルーンコンテストヘの参画を求めた。夜は連日連夜の打合せで、土曜も日曜もあったものではなかった。にもかかわらず、呉市の貞国さんは、終始、自分たちに付き合ってくださった。打合せは、担当副理事長の森沢嗣起さんの配慮で、いつも呉森沢ホテルで行い、食事もそこでとっていたが、一度たりとも食事代を求められたことはなかった。宇宙戦艦ヤマトのソーラーバルーンは、巨大な代物だけに、製作は困難を極めた。この事業には4つの委員会で携わっていたため、総勢40人位で、呉市体育館で作成した。イベントは呉市役所前の駐車場広場で行われ、開会式には、宇宙戦艦ヤマトの著者である松本零士氏も参加された。

 

 苦労の末、ヤマトイベントは無事終了し、打上げが呉森沢ホテルで行われた。スタッフ全員が大きな充実感と達成感に浸り、自然の成り行きでビールかけが始まってしまった。レストランは、天井から床までビールまみれになり、3日間使えなかったそうだが、森沢さんは、何も言わず、ただニコニコされていた。森沢さんは、本当に腹の据わった方で、理事長に「JCは、あまり表に出過ぎなくてもいい」と言われ、うんうんと頷きながら、翌日にはケロッとプレス発表をされたりする方だった。こうと信じたときには、意見を曲げず、ぶれない方で、そこが、あの人の魅力でもあった。

 

 このヤマトイベントは、社会開発室の理事全員が進退をかけて取り組んだ事業だった。最終的に、この事業は全国全域を対象にしたイベント大賞でも演出賞を受賞し、また、地元紙の中国新聞だけでなく、全国紙の日本経済新聞でも大きく取り上げられた。この事業を通して、岡田さんや貞国さんをはじめ、行政の方と深い繋がりができ、ある種の仲間内のような感覚になった。事業が終わってから、呉市から感謝の接待も受けたが、後にも先にも呉市から接待されたのは、これが唯一だ。

 

 八九年、事業推進室担当の副理事長をさせてもらった。このとき、担当ラインの事業で、呉‐東京の二元中継シンポジウムを行った。実施日の直前に、些細なことが原因で中継機材の提供業者とトラブルになり、「音響システムを貸さない」と言われてしまった。既にそうそうたる顔ぶれのパネラーと万事、話がついており、この期に及んで事業の実施が危ぶまれる事態に直面した。担当ラインの会議で、重苦しい雰囲気の中、一人が「最悪の場合、四国の業者に頼もう。皆、100万円~200万円は、覚悟しておいてくれ」と発言した。このとき、全員が腹をくくった。幸いにも、土壇場で先方の態度が軟化し、事業は予定通りの形で、無事に実施できた。

 

 この年のJCは、呉みなと祭、ワールドトライアスロン、海と島の博覧会の三つのイベントの運営を、呉市から任された。全て自分のラインが受け持ち、予算総額は、1億円だった。年間1億円の予算を任された副理事長は、後にも先にも自分1人ではないかと思う。もちろん自由勝手に使えるわけではなく、責任は重かった。その年、胃潰瘍になり、入院したのも、その重責たる所以だったのかもしれない。

 

 JCでは、主に対外畑を歩ませてもらった。そのおかげで、企画や運営をする上で、先の展開が読めるようになった。何を準備すればよいか、どのような危機を想定しておく必要があるか、あるいはどんな根回しをしておけばよいかといったことが、自然と頭に浮かぶようになった。また、相手に隙を与えないようにしつつも、一方で逃げ場を残しておく交渉術も身に付いた。何のためにやり、なぜこの方法が効果的なのかを、決して独りよがりではなく、多くの人に納得してもらえる説明ができるようにもなった。ここで得た学びは、今の自分にとって大きな力となっている。

 

 次のインタビューは、87年に専務理事をさせてもらった年に、理事長をされた三宅信一郎さんに繋ごう。